私が研修医の頃、鼠径ヘルニアの術式は、組織と組織を縫い合わせて穴をふさぐ手術が主流でした。マックベイ(McVay)法、マーシー(Marcy)法などです。(実はこの時代、既に欧米ではメッシュが広く用いられていましたが)。しかしながら現在では多くの外科医がメッシュを用いた術式を採用し、もはや標準的治療として位置づけられています。
近年、医療の各分野においてエビデンスに基づいて作成されたガイドラインが公表され、標準的な治療法が広く行われるようになりました。鼠径ヘルニアは各外科医のこだわりがあり、また術式による治療成績も大きく異なることはないため、ガイドライン作成は困難だろうと言われてきました。一方でエビデンスも少なからず存在する領域でもあり、ガイドラインの必要性は以前より提唱されていました。
我が国では、日本内視鏡外科学会で内視鏡外科手術のガイドライン(http://www.kanehara-shuppan.co.jp/catalog/detail.html?isbn=9784307202459)がまとめられ、昨年公開されました。私は「鼠径部ヘルニアに対する腹腔鏡手術のガイドライン」の作成メンバーに加えていただき、この分野の勉強をさせていただきました。しかし、鼠径ヘルニア手術において腹腔鏡手術は、メジャーな術式とはいえず、あまりインパクトのあるガイドラインとはなりませんでした。
しかし、今年の9月、EHS(the European Hernia Society)より鼠径ヘルニアの診療ガイドラインが発表され、ヘルニアの専門家の間で大きく注目されています。ダウンロード(https://www.herniaweb.org/library/downloads.php)。ヘルニア診療についてさまざまな面から記載されていますが、注目すべきはLichtenstein法が推奨されている点です。Lichtenstein法は我が国ではほとんど行われていませんが、アメリカでは約3割、ヨーロッパでは約6割の症例で行われている、優れた術式です。我が国では1990年代半ばまで、組織と組織を縫合する術式が主流でしたが、欧米ではこのLichtenstein法が普及しつつある時期でした。1990年代後半になり、メッシュのメーカー主導で、メッシュプラグ法やPHS法が普及するようになり、日本ではLichtenstein法が抜け落ちた形で、メッシュによる術式が広まるという特異な形となりました。私自身も、その風潮に押されるようにさまざまな術式を取り入れてきました。メッシュプラグ法やPHS法以降も、クーゲル法、3D-P法、ダイレクト・クーゲル法など、多くの術式を試してきましたが、1年半ほど前からはLichtenstein法を取り入れています。欧米で広く行われているということだけではなく、日産多摩川病院の中島院長(元・日本ヘルニア学会会長)のLichtenstein法が素晴らしい治療成績を上げていたことにも影響されました。実際やってみると患者さんの術後経過はとてもよいと実感されます。またクーゲルやPHSのように腹膜前腔に侵襲を加えなくてもよい治療成績が得られることも魅力の一つです。今回、Lichtenstein法が思いがけずガイドラインで推奨されたことから、今後、我が国でもLichtenstein派が増えるのではないかと期待しています。
日本ヘルニア学会では、我が国独自のガイドラインを作成することが決まりました。私も作成メンバーに加えていただきましたので、国民の皆様によりよい医療を提供できるように、学会で力を合わせて頑張りたいと思います。
2009年11月26日木曜日
2009年8月23日日曜日
NOTESについて
NOTESとはNatural Orifice Translumenal Endoscopic Surgeryの略語で、日本語では経管腔的内視鏡手術といいます。
この数年注目されている新しい手術で、体壁に一切傷を作らない夢の手術といえます。
Natural Orificeは口や腟など、本来、人がもっている「くち」(孔といいます)のことです。他に肛門や尿道もあります。TranslumenalはLumen(管腔)をTrans(経る)ということで、消化管などの管を通してお腹の中に達することを意味します。つまり皮膚を切らずに、お腹の中に入り手術を行うのです。
Endoscopic Surgeryは内視鏡手術のことで、目で見て手で触って行う開腹手術に対して、内視鏡の映像を見ながら鉗子などで行う手術のことです。内視鏡手術は従来(といっても20年ぐらいの歴史ですが)、お腹に数か所の穴をあけて、まっすぐな硬い道具を利用して手術を行っていました。
一方、NOTESでは曲がりくねった管腔を通して手術を行うため、柔軟に曲がる細長い道具を使って手術をする必要があります。現状ではまっすぐな道具に比べ機能が限られているため、あまり複雑なことはできません。したがって臨床では、胆嚢や虫垂を切除する手術が一部で行われているのみです。
しかし、技術の進歩により安全に多くのことができるようになれば、さまざまな場面でこの治療法が取り入れられるようになるでしょう。
現在、消化器外科では多くの疾患で腹腔鏡手術が標準治療として位置づけられるようになってきましたが、20年前には、想像もできなかったことです。NOTESは、まさに20年前の腹腔鏡手術といえるでしょう。手術器具や手技の進歩により、いずれは多くの患者さんの治療に応用されるようになるでしょう。
我々はそのような未来像を見据え、NOTESの研究に取り組んでいます。安全で苦痛のない治療を実現するために、この分野の研究推進は重要なのであります。
2009年8月16日日曜日
胃の粘膜下腫瘍について
胃の粘膜下腫瘍(submucosal tumor; SMT)は、胃の正常な粘膜の下にできる腫瘍です。
胃癌は粘膜が腫瘍化するのに対して、粘膜の下の組織(筋肉や血管、神経、脂肪など)が
腫瘍化する点で癌とは異なります。
しかし中には、放置すれば大きくなったり転移したりするものもあり、適切な診断と治療を要します。
最近、粘膜下腫瘍をどのように取り扱うべきかを示したガイドラインができました。
これによれば、2センチ以上のものや、大きくなっているもの、形がいびつなものなどは
詳しく調べた後に手術などの治療を検討することになります。
5センチ以下であれば、腹腔鏡手術という傷の小さな手術が検討されます。
胃の粘膜下腫瘍で、最も多いのが消化管間質腫瘍(gastrointestinal stromal tumor; GIST)と
いうもので、1980年代以前は平滑筋腫あるいは平滑筋肉腫と呼ばれていました。
小さいうちは良性のものが多いのですが、大きくなるにつれ悪性度が増すことが特徴です。
胃にとどまっているものは、手術で切除すれば治ります。
転移した場合には薬物療法が行われますが、根治することは困難と言わざるを得ません。
しかし、上手に薬物治療を行えば腫瘍の増殖を抑えたまま生活することができます。
手術は、一般的に胃の一部を切り取るだけで済むため、術後の食事の心配はあまりありません。
しかしながら、腫瘍の場所や大きさによっては、たくさん胃を切り取る必要もあります。
手術も薬物治療も、経験の多い施設で受けることが重要です。しかし、
GISTは比較的まれな病気であるため、どこの病院でも治療経験が豊富というわけではありません。
当院は、2005年まで勤務されていた故・大谷吉秀先生がSMTやGISTの治療の第一人者で
あったこともあり、豊富な治療経験を有しています。
GIST診療ガイドラインの作成では、同じく当院で長くこの手術をされた故・久保田哲朗先生が
委員長を務め、大谷吉秀先生も委員の一人として参画されていました。
私も若輩ながら、作業のお手伝いをする機会をいただき、この分野の勉強を深めることができたのは
この二人の恩師と、当時、日本癌治療学会理事長をされていた北島政樹名誉教授のご指導の
賜物と思います。
当院では腹腔鏡手術のほかさまざまな縮小手術や機能温存手術に取り組んでいます。
少しでも患者さんの術後の状態がよくなるように、北川雄光教授の指導のもと、教室として
GISTの診断・治療・研究に取り組んでいます。
胃の粘膜下腫瘍やGISTのことで心配なことがありましたら、お気軽にご相談ください。
ヘルニアについて
ヘルニアと言っても、腰のヘルニアや食道裂孔ヘルニアなどいろいろありますが、
今回お話しするのは、鼠径ヘルニア(鼡径ヘルニア、脱腸)についてです。
鼠径ヘルニアは手術の入門とされ、外科医なら誰でもできる手術です。
したがってヘルニアに専門性があるかというと議論の余地はあるでしょう。
私は「日本ヘルニア学会」という鼠径部ヘルニアと腹壁瘢痕ヘルニアに関する学術団体の
評議員を務めています。学会ではヘルニアに関する専門的な発表を聞いて勉強しています。
そのなかでヘルニアの専門性について感じていることを述べさせていただきます。
まずは治療成績について。
ヘルニアは誰がやっても、大方、治ることは間違いありません。
手術方法もいろいろありますが、どの方法でも大きな差はないと思います。
しかし、頻度は少ないながらも合併症(後出血や感染、その他)や後遺症(慢性疼痛など)、
そして再発のリスクは、医師によって異なります。
これは外科医としての能力差があるというよりは、単に経験の多寡による部分が大きいと言えます。
これを専門用語で surgeon volume とか learning curve というふうに表現します。
手術の結果の良し悪しは、経験数に影響を受けることは科学的に証明されていることです。
その意味において、ヘルニアを専門としている外科医の治療を受けることにはメリットがあるでしょう。
稀な合併症や後遺症、再発のリスクという観点だけではなく、傷の大きさや手術時間、
術中・術後の痛みなど麻酔法に関連することや、入院期間など、手術を受ける全ての患者さんに
関わる事柄についても差があるのではないでしょうか。
また、抗凝固薬(ワーファリンやアスピリンなど血栓を予防するお薬)を内服している患者さんは、
以前は、このような薬を中止して(あるいはヘパリンに変更して)手術をしていましたが、
最近では内服を継続したまま手術を行うことが可能であることがわかってきました。
このことで、血栓症による重篤な合併症(脳梗塞や心筋梗塞、肺塞栓症など)のリスクを上げずに
かつ出血のリスクも特段上げることなく手術が可能であることを検証しています。
このようなヘルニア診療における先進的な取り組みも、ヘルニアを専門としているからこそ
できることであると自負しています。
次に重要なことは教育です。
ヘルニアの手術は、手術の基本手技が多く含まれており、若い外科医に手術を教育する上で
実に多くの材料を提供してくれます。
これは、患者さんを教育の材料にするということではありません。
手術の質を一切下げることなく若手医師の教育を行うことが可能となってくるのであります。
手術の展開上、問題ない場面では、主導権は指導医たる私が握りながら、若い医師に執刀させ、
何か問題があるようなら、直ちに自分が手を出す、というふうな柔軟な手術によりこれが実現できます。
また、指導医が最適な術野を作ることで、手術がやりやすくなるため、経験の浅い医師であっても
上手に手術ができるという面もあるため、むしろ経験のある医師が助手を務めた方が
良い手術となることは、しばしば経験されることであります。
このような教育上の利点も、たくさんの手術を経験することで蓄積されるノウハウといえます。
鼠径ヘルニアの治療を受けるのであれば、症例数の多い施設(または医師)の治療を受けるのが
いいのではないでしょうか。
このことは単に鼠径ヘルニアに限らず、全ての外科系疾患についてもいえることだと思います。
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