2010年7月22日木曜日

手術の教育の進化

ITの進歩に伴い手術の教育方法も変化してきています。

私が研修医の頃、手術の教育はOJT(on the job training)でした。
上司の手術に助手として入り、患者さんを通してその技術を伝授されるというスタイルです。
そして一定期間たつと、震える手で「はじめての手術」を体験することになるわけです。
また教わる内容も指導者によりまちまちということも当たり前でした。
当然のことながら症例の多い病院と少ない病院で教育効果が違います。
しかし、手術といういわば職人芸を学ぶのですから、やむを得ないことと思っていました。
このような弊害を最小限にするため、若いうちは、いくつかの病院を移って、
いろいろな手技や考え方を身につけるということが行われます。

このような状況は今世紀になり徐々に変わって来ました。
きっかけは、内視鏡外科手術の普及です。これは100年に1度の革命ともいえる変化でした。
内視鏡外科はテレビモニターに映し出された映像をみながら行う手術であるため、
手術映像の記録が容易です。したがってこの新しい手術は、学会などでのビデオ発表を
通して、急速に普及しました。ITの進展とも相まって、よい手術方法は、どんどん
広まっていったのです。新しい手術なので、その教育法にも関心が集まりました。
そこで手術の教育カリキュラムが形成されてきました。
それまでは、指導者について、その人独自のノウハウを学んできたスタイルから
共通のカリキュラムにしたがって効率よく学習するという教育法に変化してきたのです。
ちょうど、初期臨床研修がはじまったことも、この変化を後押ししたと言えます。

また医療における大きな変化がもうひとつあります。
それは、広尾病院や横浜市大の事故を契機にした、医療に対する社会的関心の高まりです。
現代は患者さんで練習するということが許される時代ではなくなってきたのであります。
それではどうやって手術の練習をすればいいのでしょうか。
その答えがシミュレーションです。

一番単純なシミュレーションはボックス・トレーナーです。
これは、プラスチックのケースの中にスポンジなどをおき、内視鏡外科用の鉗子を使って
縫合の練習などを行うものです。一番安価で実用的な練習方法といえます。
しかし、生身の体とはかなり違うので、基本的な技術の習得には有用ですが、
これだけでOKというわけにはいきません。

次によく行われるのが、動物を用いた練習です。
内視鏡外科では、一般にブタを用いたトレーニングが行われます。
この教育効果は極めて高く、若手の教育には必須ともいえます。
しかし費用が高く、動物の命を犠牲にすることから、なるべく最小限にする必要があります。
また動物のトレーニングができる施設は限られており、指導者も受講者も、移動の時間も含めて
多くの時間と労力を必要とすることも欠点です。

献体(死体)を用いた手術教育は、我が国ではほとんど行われませんが、
欧米で広く行われています。人間なのでとてもよい勉強になりますが、
血が出ないということと、安定的な供給がないことが欠点です。

このような問題をクリアするのがVRシミュレーターです。
VRとはvirtual realityの略で、仮想現実と訳されます。
テレビゲームのようなものですが、最近のVRシミュレーターはかなりリアリティが高く
内視鏡外科手術の雰囲気がかなり再現されています。

私が学生の頃は、犬で手術の練習をしました。
医学教育のためとはいえ、かわいそうだなと思ったことを覚えています。
今、私は医学生に、このVRシミュレーターを使って手術を教えています。
命に関わらない分、ゲーム的になり、真剣味に欠ける欠点はありますが、
手術に対する動機づけという点では素晴らしい教育ツールです。
VRシミュレーターの教育で、学生に伝えたいメッセージは、
1.手術は器用である必要はないこと
2.練習すれば必ずうまくなること(learning curveの存在)
3.手術はチームワークであること
4.早くて雑な手術より、遅くても丁寧な手術がいいこと
です。1回5,6名の学生にVRシミュレーターで手術を教えていますが、
このようなことを理解してもらえるように配慮しています。

VRシミュレーターは飛行機の訓練で実用がが進んでいて、
ライセンスの更新では、実機訓練なしでVRシミュレーターのみで合格すると聞いています。
手術のシミュレーターはそこまで進んではいませんが、今後の技術開発によっては
使用範囲が広がるかも知れません。
よりリアルで安価なVRシミュレーターが登場すれば、患者さんや動物に迷惑をかけることなく
立派な外科医を養成できるようになるので、この分野の研究推進が期待されます。

2010年1月31日日曜日

ネット世界の分断

今日の産経新聞の梅田望夫誌の論評は、多くの示唆を含む内容であった。

梅田氏はこれまで、ウェブの進化を比較的オブティミスティクに捉え、少なからずそれに影響を受けていた私としては、下記の見通しはいまだ解釈しかねている。
(以下、本日の産経新聞1面から引用)
これからのウェブ世界は、こうした欧米の価値観やイデオロギーに強く牽引された「共有地たるグローバルウェブ」(主に英語圏)と、「政治体制や文化・言語圏に閉ざされたローカルウェブ」がせめぎあい、分断されて林立する時代を迎えるのであろう。
http://sankei.jp.msn.com/economy/it/100131/its1001310248000-n1.htm
(引用ここまで)

「ウェブ」と「インターネット」と「ネットワーク技術」は、同義ではないけれど、インターネットが現代のコミュニケーションの中心にあることは明白で、その共有地たるインターネットが米国を中心に運営されているのは、米国とイデオロギーを異とする社会からは不満もあるであろう。

中国のインターネット検閲が大きな問題となっている。中国政府からすれば、国家体制を維持するために、ウェブ上の政府に批判的な通信を制限しようという発想は理解できなくもない。また、中国国内でインターネットが自由にアクセスできないことは、米国がテロリズムを抑え込むために、空港で利用者にさまざまな不便を強いていることと、ある意味で同じなのかもしれない。空港で靴を脱がされたりペットボトルを没収されたりすることはおかしいと、もし他国が異を唱えれば、米国はテロリズムから国民を守るためだと言うであろう。それと同じように、ウェブの検閲は中国政府が一部の反政府分子のテロを抑え込むためだとするであろう。

我々からすれば、生まれたときから民主主義の中にいて、その繁栄を享受しているため、その体制に何ら疑問を感じないが、世界に目を向ければ、その価値観は普遍的とはいえない。もし13億人の中国国民が、われわれと同様の民主主義を望んでいるのであれば、当局がどんなに規制をしようと、抑えきれるものではないだろう。それは、ベルリンの壁がなくなった歴史からも明らかである。

インターネットは、西欧諸国の繁栄と表裏一体に、その中心的な位置づけを獲得したのであろう。しかし、今後、西欧諸国の成長が頭打ちになる一方で、中国やインドが高度成長を果たし、経済的覇権が進めば、第2、第3のインターネットが発生することもあるかも知れない。そのネットワークで、安くて品質の良いものが手に入るのであれば、世界中の消費者は新たなネットワークに接続するだろう。グローバリズムは経済力の相対的な価値のバランスの上に成り立っているのではないだろうか。

梅田氏は論説を「グーグル中国問題は、そんな21世紀のウェブ進化のひとつの方向性を示唆するものである。」と結んでいる。ネット世界の分断しうる方向性に対して、米国政府が台湾に武器を輸出し、溝をさらに深めるような決定を下すことには、違和感を感じる。グローバル化の進展において、価値の多様性を認めることこそが分断を防ぐ重要な一歩であり、中国のネット検閲もある程度容認すべきであろう。もちろんサイバー攻撃のような犯罪行為には断固抗議すべきであるが、武力的緊張を高めるのは無益である。

中国当局の検閲問題は、それを批判せずとも、しかるべきネットワーク技術の開発により自由に通信できるインフラを提供すれば済む話である。グーグルの技術と資金があれば、そんなことはたやすいことではないかと思うのだが。